
ある時ふと、旦那に「友達いる?」と聞いてみたことがありました。
旦那「ん~?いるよ、〇〇!」
私「いやいや、それ従弟やん!」
旦那「……じゃあ、いない」
友達と呼べる人がいないことは置いといて、従弟の名前が出てきたことにびっくりしました。旦那の感覚の違いなのか、そもそも『友達』という言葉の概念が違うのかもしれないと思いました。

私の浅い経験でカンボジア全体を語ることは出来ないので、同じ経験をして『なんでだろう?』と思っている方と共感出来たら嬉しいです:)
日本の人間関係ってすごい
私がカンボジアに移住して5年目くらいに気づいたことがあります。それは、カンボジアでは恋人を見つけるよりも、現地の「心の底から何でも話せる親友や深い友達」を作る方がよっぽど難しいということ。笑
日本にいるときは、「他人」から「信頼できる友達」になることを当たり前のように感じていましたが、海外に出てからは「日本の人間関係って、実はすごく特殊で高度なんだな」としみじみ感じています。
例えば、日本では年齢が離れていても「友達」と呼べるし、幼稚園からの付き合いが大人になっても続いたり、それぞれのコミュニティや学年ごとに自然と友達ができます。しかも、お互いに心地の良い「距離感」を保ち、不要なお金の貸し借りやトラブルでストレスを抱えることもあまりありません。
『友達』の概念
日本でも『友達』の価値観は人それぞれ異なると思いますが、カンボジアでは以下の理由で、「友達の必要性」と「考え方の違い」が出てるのかなと思い、ちょっと分析してみました。

- 人間関係が流動的
- カンボジアではその場その場のノリや仕事などのコミュニティが流動的で、過去・未来の人間関係よりも「今の楽しい時間やその場のつながり」を大切にしている
- 友達=親戚、同僚
- 日常生活の人間関係の中心が「家族や血縁者(親戚)」になりがちで、友人関係の枠組みが日本とは少し違う
- 同級生の友達を作ることが当たり前じゃない
- 家族の経済状況や教育観念の違いから学校の入学年齢がバラバラで、「同い年で同じ学年」というカチッとした概念があまりありません。
そのため、進学する段階で経済的な理由などから中退する子も出てくるため、日本のような「同じメンバーで小中とずっと一緒に育つ」という連続した友達関係が生まれにくい
- 家族の経済状況や教育観念の違いから学校の入学年齢がバラバラで、「同い年で同じ学年」というカチッとした概念があまりありません。
- 呼び方の違い
- 年齢が少しでも離れていると、友達というよりも「兄貴、姉貴、弟、妹」といった親族のような呼び方になり、結果としてフラットな「友達」になる範囲が狭くなる
- 歴史的背景
- ポルポト時代などの歴史的背景から、血縁関係以外の他人に対して深く信頼関係を築くことに対して慎重にならざるを得ない面がある

大人になってから利害関係なくプライベートで遊んだり、深い悩みを打ち明け合ったりするような「いわゆる日本の友達」という文化の枠組み自体が、少し特殊なのかもしれません。
だからこそ、冒頭のように旦那に「友達は?」と聞いたときにとっさに「従弟」の名前が出てきたことにも、あとからすごく納得いきました。
お金の貸し借り問題
カンボジアでの人間関係において、避けて通れないのが「お金の貸し借り」の問題です。日本では、友人同士でお金の貸し借りをするのは基本的にタブー視されると思いますし、私も好きじゃありません。「親しき仲にも礼儀あり」という言葉がある通り、お金が絡むと人間関係がこじれるのを知っているからだと思います。
でも、カンボジア(特にローカルの環境)を見ていると、家族や親戚、そして「友達」の境界線が良い意味で(あるいは悪い意味で)曖昧です。 「困っている人がいたら助けるのが当たり前」「ある人がない人に分け与える」という宗教の教えが根底にあるからこそ、気軽にお金の相談や貸し借りが発生しているのかなあ…と
最初はカルチャーショックというか、やっぱり「外国人=お金としか思われてないのか、友達って思ってくれてなかったんだ」と悲しかったんですが、これは彼らにとっては良くも悪くも「友達なら困ったときに助けるのが当たり前」という考えがあるから。もちろん、私達が困ったときにも助けること前提の相互補助だと思っています。
※もちろんそうじゃない場合もあります。笑
それに振り回されて疲れてしまうこともあるけど、この「距離の近さ・助け合う温かさ」こそが、この国のフレンドリーさ・人懐っこさの裏返しなのだと今は少しだけ理解できるようになりました。

日本人先輩方からは、「あげるものだと思って貸しさいね。」と教えてもらったので、仮に貸す場合は、その心持ちでいるようにしてます。